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 わが家のブロック塀とガラス工房の間に、いつの間にか背丈を超えるほどの桑の木が出現しました。

 たぶん、鳥の落とした糞から自生したものでしょう。

 隙間が狭いので体が入らず、根こそぎ始末することができません。

 ご存知の方もいると思いますが、桑の木は枝を切っても、幹を切っても、すぐまた同じように生えてきます。

 そのように強い木なので傾斜地に「土留め」として植えられました。

 実を食べると口や手が「ドドメ色」になるのは桑の木の別名から来ているのですが。

 さて、そのように始末に困る桑の木の利用法を思いつきました。

 桑の葉茶の製造です。

 桑の葉茶は血糖値を抑えることからダイエットや糖尿病の予防にもつながる健康食品として結構な値段で売られています。

 でも、それが作ろうと思えば比較的たやすく作れるのですよ。

 摘んだ葉をよく洗い、天日干しにして手で揉み、細かく砕けるくらいになるまで水分がぬければ、もうそれだけで桑の葉茶の完成です。

 葉っぱを3~10分ほど蒸し、その後60~70度のオーブンで乾燥させて作る方法もあります。
 
 あとは、緑茶のようにお湯で煎れるほか、ミルで粉状にして青汁に加えるのもおすすめです。

 たったこれだけで買えばお高い桑の葉茶が飲めるのですから、道端で桑の葉が目に入った方はぜひやってみてください。

 一口飲むと、ほろ苦く淡い初恋を思い出すことでしょう。

 古くから薬草として庶民に愛されたことに納得できる味がします。


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わが家の桑の木

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天日干し中

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手もみしたもの

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完成
炉辺談話10年 耳の会発足10周年記念

 耳の会記念誌刊行委員会編 耳の会発行


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炉辺談話10年 耳の会発足10周年記念


 私の父のいとこ市村一衛が主宰した巴農民道場に集う耳の会会員とその関係者の文集です。

 耳の会とは耳学問の会という意味。

 県内外からジャンルにとらわれず講師を呼び、市村一衛の提唱する新農本主義を深めるための勉強会でした。

 その様子は会員や関係者により記録され、会報を始め新聞雑誌などにも掲載されています。

 会報では同級生の照沼君の文章を読んだことがありますが。

 それらをまとめ、加筆されたものが、この炉辺談話10年です。 

 特に巻末の中国作家の記録は住井すゑ作品集8巻「牛久沼から」374・375頁に転載され、書式も全く同じです。

 炉辺談話(ろへんだんわ)とはいいもいったり、大統領談話の意味もあるのですよ。

 まるで大統領のような口ぶりで囲炉裏端の若者たちに講釈する一衛の姿が目に見えるようです。

 66頁「蘇州寒山寺に烏がいない」を記された伊東正一氏は私どもが東京に出てきて右も左も分からないときに何から何までお世話になった方です。

 当時は「ねじの世界」という業界誌の編集長でした。

 しかも、中国語がペラペラ。

 短波放送が受信できるラジオを使って中国語を勉強したそうです。

 オペラ東方紅(トンファンフォン)や文化大革命のことなど、みな伊東さんから教えていただきました。

 後になって中国語を習ったのも伊東さんの影響です。

 編集の仕事をやめてからは生まれ在所の神栖市に帰り、物流会社の役員になりました。

 耳の会には伊東さんのような傑物を惹きつける魅力があったのでしょう。

 類は友を呼ぶ。

 このような傑物の集まる場所を梁山泊(りょうざんぱく)といいます。


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目次

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目次

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66頁  「蘇州寒山寺に烏がいない」 伊東正一

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116頁 懐かしい思い出 ---日本「耳の会」成立十周年記念の為に 曉 凡 1

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117頁 懐かしい思い出 ---日本「耳の会」成立十周年記念の為に 曉 凡 2
 直径22センチの菓子皿に彫刻しました。

 みどり色なので葉模様のデザインです。

 全体に葉模様のデザインは同じなのですが、2分割して一方は浮き彫りに、もう一方は透かし彫りにしてみました。


シートカット完了
シートカット完了

シートカット完了1
シートカット完了

ブラスト完了裏
ブラスト終了

ブラスト完了表
ブラスト終了

完成裏側
完成

完成表側
完成
野性の思考 大地に生きた男の生涯

市村一衛 著 望月照彦 監修 自分流選書


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野性の思考 大地に生きた男の生涯


 私の父のいとこ市村一衛の自伝と追悼文を合わせたものです。

 単なる読み物としても抜群に面白いですよ。

 痛快無比な大男が次々と世の中の悪習に立ち向かい、苦界の女性たちを救いながら、成功をおさめ、今でいうSDGsをいち早く立ち上げる話なので。

 追悼文は大学教授やマスコミ関係などのそうそうたる方々が寄せています。

 これらのうち、わが家に直接関係する部分を解説しましょう。


 最初の奥さんと私の母は同姓同名にして所番地も同じでした。

 ある日、警察からの呼出し状を彼女が母に持ってきたのです。

 万引きの嫌疑でした。

 母はそれを駐在所に持っていき、自分宛ではないことを確かめました。

 彼女は万引きの常習犯。

 じつは、それが原因で離婚したのです。

 そのことは長男のT君にまで尾を引きました。

 T君は私の1つ下で竹馬の友、転げまわって一緒に遊んだ仲なのですが。

 一衛さんが亡くなって間もなく、川口市のわが家に突然現われました。

 父から謝りに行けと申しつかっていたのできました、とのことです。

 彼はそのときも、まだ母の悪癖に困り果て、それゆえ独身とのことでした。

 まもなく、彼もC型肝炎で亡くなってしまいました。

 彼の一生は母親のフォローで終わってしまったようで残念でなりません。

 母親は明らかに難しい病気なのですから、もっと公的扶助あってしかるべきだったのですが。


 1億2千万を持ち逃げした最後の奥さんからは直接被害を受けました。

 母がいじめにあったのです。

 近所の方のリーダーになって意地悪をしました。

 そのことから逃れるために私が住んでいた新座市にアパートを借り、母と姉、そして東京に出ていた2人の妹たちと暮らし始めたのです。

 しかし、一衛さん自身は細かいことには頓着しない方なので私たちに対しては無色透明でした。

 被害をこうむったこともなければ、おかげをこうむったこともありません。

 本家の葬儀のときの悪態ぶりには驚きましたが、わが家に対してはたった1度も無礼な態度をとったことはありません。

 あれもこれも、過ぎてしまえば、みな懐かしい思い出です。

 私の父も正義感が強くて変わり者でした。

 私も、少しですが、そのけがあるので、一族の血がさせたものと思えば、一衛さんのしたことはすべて納得できます。

市村一衛 野生の思考」はネットショップで取り扱っています。


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写真
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写真
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80頁 
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82頁
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84頁
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別紙
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別紙
 花の写真ニュース発行者の小野瀬壽君から「野性の思考」の著者市村一衛は身近な人ではないか、といわれました。

 同じく幼なじみで今も地元で音楽活動をしている新堀熙輔君から、住井すゑ作品集にでてくる市村一衛は親戚ではないか、とのメールがありました。

 ほかにも鉾田一高の同窓生や東京在住の茨城出身者からも、訊かれたことがあるので、お答えしましょう。


 わが故郷には第一子が男女にかかわらず家督相続するという古い形の惣領制という習わしがありました。

 明治の初めに生まれた私の祖母市村いち、は惣領娘なので家督相続をしました。

 いちの7年後に生まれた弟の市右衛門は長男でありながら慣例に従い分家しました。

 その市右衛門の長男が一衛。

 なので、一衛は私の父のいとこになります。

 名前はおそらく、いち、がつけたものと思うのですが。

 市村家には代々、一・市・いち、などの通字(とおしじ)があり、祖母のいち、はそれにすこぶる、こだわっていました。

 若くして亡くなった婿殿を立派な名前がありながら、かってに一男と呼んでいたほどですから。

 長男も一男、孫は市左衛門と名付けました。

 なので一衛もおそらく、いちの作品でありましょう。

 いちは不思議なことに風貌や性格が住井すゑさんにそっくりだったのですよ。

 私の母が私と妹たちをつれてあいさつのいくと、安だけつれてくれば、あとのよけいものはいらないから、といって困らせました。

 さて、一衛のことですが、巴村村長をやっていた父の市右衛門におおらかに育てられたせいか兵役を終えた青年期には常東農民運動に飛び込みました。

 常東農民運動は農地改革運動の先駆けだったのでけっきょくGHQの農地解放によってなし崩しにされますが、一時はかつての安保闘争のように全国的な広がりをみせたのです。

 その指導者の山口武秀とともに一衛は馬を連ねて各地の地主宅に乗り込みました。

 私が牛乳配達をしていた新堀正孝(巴農協組合長・鉾田一高同窓会長)さんの奥さんはその時の恐ろしかったようすを朝ご飯をごちそうしてくれながら話してくれました。

 また、母の実家の前島浩さんからも全く同じことをきいたことがあります。

 山口武秀さんに私は井川信彦さんに紹介され、数回会ったことがあります。

 上富田のし尿処理場反対運動の時でした。

 著書の「水戸天狗党物語」を読んだあとだったので胸がわくわくしたことを覚えています。

 さてさて、常東農民運動は終戦直後の一時のできごとですから、そのあとの一衛はなすすべもなく、マットレスなどの宣伝販売をしていました。

 そして、まもなく持ち上がった巨大プロジェクトが鹿島臨海工業地帯の建設です。

 これには常東地区の農地転用や漁業補償などが絶対条件ですから、おそらく資本(財界)はその交渉を摘便になしえる人物を探していたのでしょう。

 そこにぴったり当てはまったのが、かつての闘士でありながら生活に困っていた一衛でした。

 渡りに舟の思いだったのか、かつての敵や味方だった常東農魚民と資本側を仲介し、見事にフィクサーの役割を果たしたのです。

 資本側から先生先生と呼ばれ、財を成した一衛は老境にさしかかり、さすがに心苦しかったのでしょうか。

 小遣い銭を使って再び、農民運動のまねごとを始めます。

 それが、住井すゑ作品集第8巻373頁にでてくる農民道場と耳の会です。

 実際に空手などを行なう道場を隣接地に建て、古民家を移設した自宅を集会所に開放して、地元の方々の便宜を図っていました。

 同級生の照沼芳和君や先輩の郡司勤さんは耳の会の会員だったのです。

 そして、住井すゑの文章に出てくるように、ときには内外の有名無名の食客をも預かっていました。

 身内のことなので、「まねごと」と謙遜しましたが、今でいうSDGsと同じことを先駆けてやっていたのですから、歴史の流れを読むことのできる一門の思想家であり、たぐいまれな実践者だったと思います。


 私が持っている一衛の著作「野性の思考」は彼の姉である沼田早苗先生からいただいたものです。

 私にあずければ、子々孫々まで伝わると思ったのかもしれません。

 しかしながら、わが家は女子2人なので私の代で終わりです。

 もう1冊の一衛の自主出版著作「炉辺談話10年」も大切に保存してあるのですが。

 なお、早苗さんは当時、巴村でただ1人の女子師範学校出でした。

 なおなお、47歳で急死した私の父や、私自身の心臓疾患の体質は本名を無視され、無理やり一男と呼ばれた婿殿から受け継いだものと思われます。


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住井すゑ作品集第8巻 新潮社

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住井すゑ作品集第8巻 373頁 「牛久沼から」より

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住井すゑ作品集第8巻 374・375頁 「牛久沼から」より