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 言葉がないと生きて行けない。生きるためには言葉が必要。
 文字であろうと、音声であろうと。手話であろうと、絵文字であろうと。

 それらによって、私はあなたとつながり、みんなとつながり、世界とつながります。
 そして、最も大切な自分自身とつながります。

 よく、無人島へ1冊だけ本を持って行くなら何を選ぶ、という話題になりますが、それは自分と向かい合い、自身と語り合える本になるでしょう。

 沈黙の中で自分と自身が語り合う。
 どんなに騒然とした中でも、どんなに忙しく動いている中でも、それはできます。
 おそらく、マラソン選手などは自身との語らいの達人でありましょう。

 言葉は時空を選びません。
 どんな過去でも未来でも通じます。どんな遠くでも、たとえば神様仏様でも通じます。
 アリストテレスや紫式部とも、キリストや天照大神と語り合うこともできるし、ハイジやアトムと遊ぶこともできます。

 父母の言葉で忘れられないものはありませんか。先生の言葉で心に残っているものはありませんか。青春時代の友の言葉、好きだった人の言葉、いやな奴の言葉、ひとつ一つの言葉に、みな物語があります。

 そして、ドストエフスキーやマルクスの文字の海に浸り、シェークスピアや世阿弥の芸能に親しむ。
 これらはすべて言葉ありてこそ成り立つもの。

 人は言葉がないと生きていけない。
 言葉は人が生きるのに必要欠くべからざるもの。
 言うなれば、言葉は脳にとっての、水であり、食糧でありましょう。

 ゆえに、
 以心伝心、いけません。
 不立文字、とんでもない。
 見て盗め、ひどい話。

 それらはみな自分自身の言葉にしてから自分自身の中にしまい込む。
 他に方法はありません。


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4/4 朝日新聞 3面 幻冬舎広告
 子供のころ、OMちゃんという聾唖者(ろうあしゃ)がおりました。

 OMちゃんといっても 40歳ほどのおばさんですが、近所のだれもがそう言っていました。

 必ず、必ず、木喰仏のような笑いを浮べながら、1日に1回、わが家の前を通ります。

 珍しく、その仏様のような笑顔がなかったある日、OMちゃんは幼い私に話しかけてきました。

 「あ、あー、あっ、あ~、あ゛ー、あぅー、あ゛ぃ~、あーぇあ゛~」

 何を言ってるのか、さっぱりわかりません。

 お天気のことでも言っているのかと思い、「あったかいね」と言ったのですが通じていないようです。

 当たり前ですが日本語で何を言っても通じません。

 仕方なく、私も「あ、あー、あ~」と言ったのですが。

 そしたら、急に怒り始めました。聞こえてないはずなのに。

 凄い見幕で「あ、あー、あっ、あ~、あ゛ー、あぅー、あ゛ぃ~、あーぇあ゛~」と前と同じようなことを言います。
 
 私には同じようにしか聞こえないのですが、明らかに怒っていることがわかります。

 馬鹿にしたつもりはないのですが、ごめんなさい、ごめなさいと言って逃げかえりました。

 私は今でも思い出します。OMちゃんは何を言いたかったのだろうと。

 今のように個別教育が進んでいれば、手話を習ったり、発声教育を受けたりして、言いたいことを言えたのだろうに。

 知的障害の私の姉は 60歳を過ぎてから自分の名前を書けるようになり、1000円以内の買い物もできるようになりました。

 丁寧に教えてくれる方がいれば、いくつになっても人は進歩するものです。たとえ障害者でも。

 今日の朝日新聞記事 【あ゛~】 を読みながら、幼き日のできごとを思い出しました。

 記事には「だみ声などの音を、濁点によって明示した」とありますが「幼き日のできごと」を経験した私には、もっともっと深い表現が隠されているような気がしてなりません。

 おそらく、「あ~」や「あ゛~」は人類共通の言語であり、もっとも表現力の多彩なもの、と言えるでしょう。

 なお、OMちゃんを覚えている方は既に片手で数えるほどしかいないと思いますが「OMちゃん」の表記で必ずわかると思います。


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8/24 朝日新聞 be 3面 【あ゛~】 表記上のすぐれた発明
 朝日新聞の文化文芸欄に「カギ括弧が奪う自由」との記事が掲載されました。

 まずは、そちらをご覧下さい。


1 カギ括弧が奪う自由
6/12 朝日新聞27面 カギ括弧が奪う自由


 筆者のいう通り。カギ括弧は書き手にとってすこぶる便利なもの。いろいろな使い方ができるので気持ちよく多用してしまいます。
 ところが読み手はその意図をいちいち判断しなければならず、頭が疲れてしまいます。あまりにも多すぎると、目も疲れますね。

 同じような事が読点でも起こります。文章の中に「、」が多すぎると、ぶつ切りの言葉をつなぎ合わせるために目と頭が疲れてしまいます。ところが書き手にとっては、これが気持ち良くてなりません。

 句読点やカギ括弧など文字以外の記号の使い方には規定がないので、書き手の裁量に任されています。

 ・(中黒)は、よく外国人のセカンドネームとファーストネームの間に使われますが、私はそれをしません。その場合は半角開けて処理し、中黒は並列を連記するときにのみ使っています。
 なぜかといえば、日本名でも辻・村正とか辻村・正ではなく、辻 村正とか辻村 正のように表記されるからです。

 並列連記に読点を使ってしまうと読点が読点の役割をしなくなってしまいます。

 会話文をカギ括弧に入れる場合、最後の句点は省略しています。煩雑になるので。

 私はこのようの扱い方をしていますが、大きくはプロとアマの使い方、つまり業務用と学校用があるようなので、ここをクリックして参考にしてみて下さい。
 1万円札は単なる紙切れなのに、今のところ10000円分の金と同じ価値があります。ところが、1円玉と同じ量を印刷したらどうなるでしょう。いうまでもなく、1万円札は 1円玉と同じ価値になってしまいます。すなわち、1万円札が10000円の価値をもっているということは、そういうことをしない、という信用の裏付けがあるからなのです。

 私が思うに、日常に通用している言葉も貨幣に似て、あまりにも数多く使われすぎると、価値が下がってしまうのではないでしょうか。そしてついには全く逆の意味にさえなってしまうのです。

 古くは貴様・お前・てめえ、最近ではすごい・こだわる・やばい、中ぶらりんのものでは煮詰まる、など。

 要するに、当たり前のことを必要以上に強調されると、人は疑いを持ちはじめ、ついには逆の意味に感じてしまう、ということなのでしょう。

 すでに、このことはホームページの「あなたを信じています」で示しています。

 同じように感じる方もいるとみえて、今日の朝日新聞には後藤正文氏が「絶対、大丈夫」の不穏さ、という記事を書いています。

 政治家や芸能人など有名人は、あまりにも当たり前の言葉は繰り返し使わない方がいいですよ。

 言葉のインフレーションは避けなければなりません。

 言葉は貨幣と同じように信用の裏付けがあって初めて通用するものなのですから。

        取り戻そう 言葉と文字の力を


1 912 朝日新聞31面 「絶対、大丈夫」の不穏さ
9/12 朝日新聞31面 「絶対、大丈夫」の不穏さ
 エッセイストの辰濃和男さんが亡くなりました。残念でなりません。

 エッセイストがノーベル文学賞に選ばれるとしたらこの方をおいて他には考えられないでしょう。

 13年間の朝日新聞コラム天声人語は社会的なムーブメントになりました。

 受験生にとって必読だったのです。

 現代国語は天声人語から出題されるゆえ。

 執筆者が変わったら、それもなくなりました。

 辰濃和男さんは体言止めを使いません。

 体言止めは新聞記事のように字数制限のあるものによく使われます。

 それをあえて使わなかったことが文章の品格と奥の深さを醸し出していました。

 題材も殺伐としたものは選ばず、「極上の美学」に叶ったものだけにしています。

 執筆者が変わったとたん、題材は何でもありに、文章はぶつ切りになってしまいました。

 この辺りから朝日新聞全体の評判が良くなくなってきたような気がします。

 本多勝一さんなど、名記者が定年退職したこともあったのでしょうが。


1 辰濃和男さん死去1213 朝日新聞 38面
辰濃和男さん死去12/13 朝日新聞 38面