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 母の入院費の支払いが終わり余裕のできた私は思いきって36万円で最新型のエレクトーンを購入した。・・・が困ったことに練習をする時間がない。仕方なく昼間の仕事である早稲田大学理工学部生協食堂炊飯部の仕事を辞めた。収入は「冬の宿」だけの2万5千円に戻ったが入れ替わっただけなので平気だった。それよりもこの世のものとは思われない音の出るエレクトーンの演奏ができることは天にも昇る気持ちだった。
 このようなときに「白いバラ」に移る話が持ち上がったのだ。銀座のキャバレー「白いバラ」のピアノ演奏料は月額4万5千円、しかも日曜祭日は休みである。「冬の宿」」は年中無休で2万5千円、声がかかれば前者に行って当然であろう。このときから、昼はエレクトーン、夜はピアノの生活が始まった。
 「白いバラ」はシアターキャバレーとして造られた建物なので中二階の半円形ステージの前にダンスフロアーがあり、それが二階客席から望めるような設計になっている。ピアノはもちろんグランドピアノ、ふたは全開、それをタンゴバンドとジャズコンボのピアニストがワルツを弾きながら交代する。その間に他の楽器奏者も入れ替わるのでワルツは切れ目なくに流れる。これぞプロの技。もちろん私はジャズコンボのピアニストとして雇われた。
 バンマスの須田さんはトロンボーン奏者で昼は霞が関の公務員、テナーサックスの中村さんは有名歌手中村ひろ子のいとこである。ベースの斎藤さんは体が小さく楽器と不釣り合いの人、ドラムの岸田さんは楽器とは反対に寡黙な人、よく遊びにくるテナーサックスの谷内田さんは麻薬Gメンであった。
 ショーの伴奏は格段に難しく、超絶技巧のマリンバ奏者や全編アレンジ譜のダンスグループなどが入ってくる。演奏技術が追いつかない私は早めに出てきて練習をするようになった。夕方、店内清掃の終わったボーイさんたちが卓球をやっている中、ハノンから始まり、チツェルニーに進み、スタンダードを何曲か仕上げる。居合わせた方にはさぞ迷惑だっただろうに誰からも文句は出なかった。
 新堀煕輔君がトロンボーンを持って遊びにきたことがある。このときの同じ楽器の須田さんとの出会いが彼の人生を大きく変えたようだ。鳥栖郵便局の後継者になるはずが、音楽も同時にやりたいがために東京・水戸などから離れることができなくなったのである。
 親友の重藤君も遊びにきた。彼はドラムに興味を持ったらしく、何年か経ってから「どうしてもドラマーになりたいから紹介してくれ」と言ってきた。ところが当時の演奏料は楽器別に違っていてドラムはピアノの半分位だ。そのうえ学校はないので徒弟制である。中卒か高卒でプロドラマーに弟子入りし、「坊や」と呼ばれて使い走りからやらねばならない。それには既に年齢が高すぎた。
 後に彼は諦めきれず直接「シャープス&フラッツ」に押しかけていったが、同じことを言われて断られたそうだ。今でもそれでよかったと思っている。
 今、考えてみると本当に「音楽は魔物だ」と思う。ひとの人生を簡単にひっくり返してしまう。
 このような生活が3か月ほど過ぎたころ、池袋新東京会館で結婚式を挙げた。同級生の小野瀬君や重藤君、恩師の石井先生などが出席してくれた。私はまだ成人式前である。
 「演奏は休めないから新婚旅行には行けない」と婚約者にいうと、「なら、結婚しない」といわれてしまった。仕方なく最短最近の伊豆半島二泊三日とし、始めてトラ(エキストラ)を2日間入れた。「トラの人の方が巧くてクビになるのでは」との心配は杞憂に終わった。以後そのようなことは一切なかったのであるから、ミュージシャンの仁義というものは大したものである。
 豊島公会堂で開かれた豊島区主催の成人式には平服で参加した。着飾った同年代の男女が何と幼く見えたことか、ばかばかしくなって途中で抜け出してしまった。私は年齢の割には老けて見えたらしく、話相手にちょうどよいと思われてかベテランのホステスさんやストリップのお姉さんから恋愛相談などをされていたのだ。
 さて、昼のエレクトーンの話もしなければならない。最寄りの楽器店が池袋ヤマハから銀座ヤマハに移った私はそこで東京理科大学の学生にしてエレクトーン奏者の小熊達也君と知り合った。ヤマハにはエレクトーン演奏の研究グループがあるので紹介してくれるという。銀座ヤマハ店の並びのヤマハ東京支店に行き、プロデューサーの阿方先生を紹介された。別室で1曲演奏を聴いてもらうと「エレクトーン演奏研究会に入ってみないか」という。費用は無料で発表コンサートもあり、有名な先生が教えてくれるともいう。
 入ってみて驚いた。担当講師は当時の超一流ジャズピアニスト八城一夫である。間接質問ならば芥川也寸志や夫人の江川マスミさんにもできる環境にあった。
ヤマハはこの時期「新製品のエレクトーンを売るためにはまず演奏家を育てなければ」と考えたらしい。その網に偶然にも引っかかり、波に乗ることができるのだ。
 服部和彦作曲個展    2月24日(月)  東京文化会館


1 プログラムより
プログラムより


 服部和彦作曲個展に行ってきました。個展といってもコンサートであることはお分かりでしょう。

 初めてではありません。前回はちょうど4年前のバレンタインデーでした。

 妻と雪の中を歩いたことを覚えています。

 今回もその時と同じように2人で出かけました。


2 招待ハガキ
招待ハガキ


 前回と同じく曲が進むにしたがってソロからオーケストラにまで編成が成長していく普遍的な構成手法です。奇をてらっていろいろなことをやりたがる方が多いですが、やはり、安定感のある盛り上りといいますか、秩序を維持した高揚感を求めるなら、他の方法は考えられないでしょう。その中で歌唱や朗読などの色使いのポイントもよく考えられていて、しかも過不足ないものでした。
 ジャズのコンサートなどでは、最初にドカンと花火を打ち上げて後はしりつぼみ、ということがよくあるのです。閑話休題。

 初曲から終曲まで水と空気の諸相で統一されている。水の動きは霧・雨・雪・せせらぎ・川・河・海などであり、空気の動きは風と呼ばれ、音楽そのものである。
 どうも、これらは作曲家のたどり着く至高の表現と思えてならない。ヘンデルの「水上の音楽」やベートーベンの「田園」から始まり、ドビュッシーの諸曲を経て、武満徹や池部晉一郎まで、作曲家として・芸術に携わるものとして・人間として求めざるを得ない世界のような気がしてならない。
 具体的には、クラスターが散りばめられた中に同音を避けた無調のメロディーが流れ、ホールトーンスケールのミニマルミュージックフレーズに対してもう一種類のホールトーンスケールのメロディーを対立させ、独特のペンタトニックスケールのなかに各楽器のハーモニックス的要素を浮き立たせるなどの手法で「水や風の諸相」や「カオスの後に訪れるコスモスの予感」を表現している。
 「朗読+音楽」は、ともすると「ピーターと狼」のように子供用劇伴化してしまいがちだが、音楽だけ、朗読だけでも鑑賞に耐える質の高いものが混合ではなく、化合の域にまで達した新しいジャンルと言えるであろう。特にオカリーナの扱いと奏者の大沢聡氏の技量には感嘆した。
 小野瀬壽君の作品がNHK短歌テキスト3月号の添削教室に採用されました(38頁)。

 添削指導を受けることは上達のための最良の方法と思います。

 短歌を作る方の参考になると思い、掲載することをお願いしました。


1 NHK短歌テキスト3月号
NHK短歌テキスト3月号

市村君にはお元気ですか、いつも私の「花の写真ニュース」をアップしていてだいてありがとうございます。
さて今日は『NHK短歌テキスト三月号』の『添削教室』(38ページに)に、私の歌を歌人の桑原正紀さん(くわはらまさき・コスモス選者)が添削してくださった歌が掲載されていましたのでお知らせいたしました。

(小野瀬の原作)人住まぬ家の畑のシデコブシ真白く咲けり青空を背に
(桑原正紀さんの添削例)廃屋の前の畑にシデコブシ真白く咲けり人恋うるがに

私の歌はいつも春になると私の「花の写真ニュース」に載せている那珂市の廃屋の前の畑に咲くコブシの花を歌ったものです。去年この歌を作ったのですが11月になって「かなり傷んでいる家の前に咲いているのですが、痛々しさが表現できないのが悩みです。」と添削をお願いしたらNHKテキスト三月号に返事が載っていてびっくりしました。桑原さんは私の短い状況説明文を読んだだけでコブシの花も家も見ていないのですが、どうして「廃屋」と断定できるほど状況が良くわかるのか私は驚きました。また桑原さんの添削した歌の中に「廃屋」と「人恋うるがに」という言葉を見た時「私の言いたかったことはこのことなんです!」と思いました。・・・正直に言えば11月もNHKに投稿はしていたものの今回は入選しそうな歌もなく、添削教室には2月号で今野寿美さんに添削してもらったのが載ったばかりだから今月連続で載ることはないだろう。」と思っていました。でももしかして・・・と思って本屋に行き、この添削歌を見た時は本当に嬉しかったです。コブシの花が傷んだ家の前に痛々しく咲いているのをこんなにもよく表現していただいた嬉しさをお伝えしたくて市村君にもお知らせした次第です。


2 添削教室応募ハガキ
添削教室応募ハガキ

3 桑原正紀 誌上添削教室
桑原正紀 誌上添削教室

4 廃屋とシデコブシ
廃屋とシデコブシ
はな1

  「花の写真ニュース」は同級生の小野瀬壽(ひさし)君が毎週発行しています。

はな2

勤めていたデイサービスセンターのお年寄りたちの心の慰めになればと思い、自主的に始めたそうです。

はな3

 A3版ですので4分割にしました。

はな4

クリックすると大画面、もう一度クリックすると最大画面になります。
花1

  「花の写真ニュース」は同級生の小野瀬壽(ひさし)君が毎週発行しています。

花2

勤めていたデイサービスセンターのお年寄りたちの心の慰めになればと思い、自主的に始めたそうです。

花3

 A3版ですので4分割にしました。

花4

クリックすると大画面、もう一度クリックすると最大画面になります。

てがみ
 2/20 2/21 菅平ホテルマッキンレー横のジャンプ台で第56回シュナイダー記念スキー大会 ノルディックシリーズが開催されました。

 未来のオリンピック選手を目指して若者がジャンプしました。


1 ジャンプ台
ジャンプ台

2 選手
選手

3 選手
選手

4 選手
選手
 宮本勇さんがひつじ文様グラスを仕上げました。

 赤とルリのタンブラーに、いろいろなひつじ文様を両面に彫刻しました。


シートのカットが終わったところ1
 シートのカットが終わったところ1

シートのカットが終わったところ2
 シートのカットが終わったところ2

途中1
 途中1

途中2
 途中2

完成1
 完成1

完成2
 完成2

 完成3
 完成3

 完成4 上から見たところ
 完成4 上から見たところ
 昨年の2月半ば、大雪の被害が全国的に出ました。

 現在の菅平高原スキー場は被害こそありませんが、そのときと同じような積雪量です。

 今までの私の記憶では、このような積雪量は10年か15年に1回しかありません。

 それが毎年連続するようになってしまうのでしょうか。

 このところ低気圧の発達のしかたが異常になってきました。

 2つ玉は当りまえ、3つ玉、ときには4つ玉となって日本列島を襲ってきます。

 連日、真冬の嵐に襲われている東北・北海道の方々、お察しいたします。


1 ホテルマッキンレー別館
ホテルマッキンレー別館

2 別館玄関より
別館玄関より

3 中庭の除雪
中庭の除雪

4 アナ雪
アナ雪

            琉球独立論  
          琉球民族のマニフェスト

   松島泰勝              バジリコ株式会社



 琉球独立論は「田勢康弘の週刊ニュース新書」でも取り上げられました(テレビ東京、土曜日11:30)。

 近年、いわゆる居酒屋独立論ではなく、歴史・理念・政治経済・国際関係など多角的な視点から考察する真の琉球独立のための動きが起きています。

 沖縄は、どう見ても日本とアメリカの二重植民地ですから独立運動が起こって当然でありましょう。

 そのためのバイブルとも言えるものが、この本です。

 「沖縄」は植民地名、「琉球」は600年もの間使われた独立国名とのこと。


1 琉球独立論


 皇居や伊勢神宮や京都の上空を日常的に米軍機が訓練をしているのを日本人が目にしたらどうでしょう。(7頁)

 薩摩藩の干渉下にあった19世紀半ばにおいても、琉球王国はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を締結していました。中国だけでなく、欧米諸国も琉球を独立国家「琉球王国」として承認していたのです。(9頁)

 およそ国家というものは、全国民に対して平等に、福利の源泉として存在していなければならないはずです。しかしながら、日本という国においては、この全国民の中に琉球人は含まれていない。
 琉球が日本国の一部であることによって多くの犠牲を背負わされるのであれば、自らの国家をつくるという選択肢を琉球人が真剣に考えても当然なのではないでしょうか。(96頁)

 様々な意味で、スコットランドの独立運動を琉球にあてはめることはできません。それにも関わらず、敢えてここで紹介したのは、スコットランドのように恵まれた現状にあっても、言語をはじめとする自らのアイデンティティを「独立国家」というかたちで表現したいという民族的希求があるということを指摘したかったからです。(134頁)

 欧州地域では、スコットランドだけでなく、スペインのカタルーニャやバスク、ベルギーのフランドル等においてもそれぞれの国会の中で独立の現実が論じられるなど、民主主義制度の手続きを経ながら独立運動が展開されています。琉球も、世界の動きに目を凝らし、それらの運動と連携しながら独立への道を歩むことができるのです。(134頁)

 中国の侵略は現時点で仮説にすぎませんが、現在ただいま琉球は日米両国の植民地下にあるということです。(167頁)

 現存する主権国家において、武装自衛権と交戦権は極めて重要な主権であるとされています。しかし、琉球国はこの主権を完全に放棄すべきだと私は考えています。のみならず、どのような大国にも安全保障を委託しない。あえていうなら、全世界の国々にそれを委託する。そのような在り方の国家を目指すべきだと考えています。「主権国家」から「国際国家」へ。それは、もしかすると戦後日本がなり得たかもしれない新しい国家像といえるのではないでしょうか。(232頁)



2 目次
目次

3 目次
目次

4 110頁
110頁
 高3の夏休み、従兄の武田幸男君のアパートに寄宿させてもらい、国立音楽大学作曲科の模擬試験講座を受講した。講師は歌曲の作曲家として知れわたっているT先生である。
 何も言わずスラスラと音符を板書していく。慌てて五線紙に書き写すと「そのまま写すやつがあるか」と、こっぴどく叱られた。書かれた一声に対して三声を付け加える課題だったのだ。瞬時に判断して五線をその分空けなければいけなかったらしい。聴音は、旋律は出だしの数音しか聴き取れず、和声に至っては不協和音で全く記譜することができない。ソルフェージュ(初見視唱)は自信があったのだが何か所か音程を外してしまう。楽器演奏の課題はエスケープした。ブラスバンドでやっていたトランペットも自主的にやっていたピアノも水準に達していないことが分かり、無駄と思ったのだ。諸々の課題が合格にほど遠いことは一目一聴瞭然だし、合格しても入学金や授業料を支払うことが叶わないことは元から分かっている。それでも挑戦してみたかったのだ。お陰で気持ちがスッキリした。今でも従兄の幸ちゃんには感謝している。
 しかしながら、音楽以外の勉強に全く興味の湧かない私に他の道は考えられない。けっきょく、入学したのは新宿柏木にある音楽専門学校だった。入試には独唱があり、驚いたことに審査員の中に藤原義江がいる。殆どの受験生がカーロミオベンを原語で歌ったが何も知らなかった私は仕方なく「帰れソレントへ」を日本語で歌った。それでも合格できたのは夜間部なので募集人員に達せず、入試など、どうでもよかったのであろう。
 こうして私は、昼は生協職員、夜は音楽専門学校学生の生活が始まる。昼の仕事は早稲田大学生活協同組合の理事をやっていた井川信彦氏の義弟が紹介してくれた。これまでの経験で一人になると食事に事欠くことを知っていた私は「どんな仕事がいい」と訊かれて躊躇なく「食堂」と答えると、そく早稲田大学理工学部生協食堂炊飯部で働くことに決まった。1日に1000食分以上もの飯を炊く仕事は決して楽ではない。何十個もの平釜を大型ガス炊飯レンジに手鉤(てかぎ)を使って入れたり出したりする。もちろん回り中熱気ムンムンだ。段取りを間違えて加熱しすぎ、平釜の底に穴を開けたことも何回かある。今のように自動点火や消火装置などなく全行程が手動だった。思ったとおり仕事中、腹いっぱい食べられることはよかったのだが、夜学が終わりアパートに帰ってくると腹はペコペコ。自炊をする時間はなく、食堂で働いていながら外食を余儀なくされることがなんとも無念だ。井川信彦氏の友人である後藤夫妻のお世話で豊島区堀之内のアパートに住みついた私は池袋駅東口の大戸屋食堂で仕方なく朝食と遅い夕食をとった。後藤氏は金達寿(きむたるす)の弟子で歯科医師でありながら作家をめざしていた。夫人は偶然にも中1担任の中奥先生の親友である。
 早稲田生協にはいい人も悪い奴もいた。高校時代「進歩的な団体には皆いい人ばかりいる」と思い込んでいた私はがっかりした。おしゃべりで怠けてばかりいる奴が直属の上司だったからある。彼が私に過剰な仕事を押し付けたとき、平釜の底を焼き切ってしまうのだ。
 古いアコーディオンを持ってきて「これでみんなの歌の伴奏をしてくれないか」といってきた山田さんはいいひとだった。その頃、大はやりの労働歌「がんばろう」やロシア民謡などを伴奏してあげると皆、大喜びだった。
 ところがメーデーも終わり梅雨が始まったころ、母が十二指腸潰瘍で入院してしまう。さっそく病院にいってみると「重症ではないが食事療法なので長くかかる」とのことだ。
「さぁー、困った入院費をどうしよう・・・」
 山田さんに相談すると、夜のお店でピアノを弾く仕事を紹介してくれるという。山田さんはベース奏者の経験があるらしい。いい人はどこまでもいい人なのだ。
 彼に連れられて池袋東口の「女の城」というキャバレーのテストを受けてみると「そういう弾き方ならうちのようなフルバンドよりもコンボのほうがいいだろう」とバンマスがいう。要するにでたらめ放題の演奏だったのだろう。断り文句かなと思ったら、すぐその足で100メートルほど離れたキャバレー「冬の宿」に連れていってくれた。こうして合計1時間ほどで私のプロデビューが決まった。「冬の宿」では「あしたから来てくれ」といわれたのだから、要するにピアノ奏者の欠員を補うためにピアノの前に座ってさえいれば誰でもよかったにちがいない。
 そのときは2,3か月もすれば元の生活に戻るつもりであったから、夜間音楽学校は休学扱いにしてもらった。ところが、音楽は一回性のものとして必要とされる現場でやるのと、練習や勉強と称してブツ切りにしてやるのでは、全く違うことに気がついてしまった。音楽学校の何倍もキャバレーの方が得るものがあるし楽しいのだ。学校音楽は死に体のものでキャバレーの音楽こそ生きているように思えたのである。ごく自然に・・・学校音楽から遠のいていってしまった。
 後で分かったことだが「冬の宿」のバンマスに「給料はいくら欲しい」といわれたとき、昼間と同じでよいと思い「2万5千円」と答えたことが雇ってもらえた大きな理由だった。メンバーの給料が安ければその分バンマスの収入が増えるので「しめた」と思ったらしい。
 「冬の宿」にはタンゴバンドとジャズバンドの2つがあり、ひっきりなしに生演奏をしていた。タンゴバンドはピアノ・ベース・ドラム・バイオリン・アコーディオン、ジャズバンドはピアノ・ベース・ドラム・テナーサックス・トランペットの編成である。タンゴバンドのバイオリンのおばさんはアドリブもスラスラとやる。今でもアドリブのできるバイオリニストは少ないのであるからそのときは驚いてしまった。おじいちゃんピアニストの演奏法もすこぶる参考になった。我が方のバンマスの高橋さんは長年無声映画の伴奏バンドでトランペットを吹いていた方である。ベテランのテナーサックス奏者はいつも大音量で吹きまくり、ベース奏者はいるのかいないのか分からない人であった。ドラム奏者は「俺の女に手を出すな」が口癖の変な人。私はといえば、音符が書いてある部分は何とか弾けるのだがアドリブ小節になると止まってしまう。高橋さんには「なんでもいいからとにかく弾けばいいんだよ」といわれたが今まで遊び半分でしかやったことがないアドリブが、そう簡単に上手くいくはずがない。
 「冬の宿」には毎日、手品やストリップなどのショーが入った。それらのうち、かつて浅草オペラの花形であった田谷力三の伴奏がすこぶる勉強になった。この時期の彼は人気が衰えていてキャバレーなどに出ていたが、その後はテレビやステージなどで引っ張りだこになっていく。
 お陰様で母の入院費の支払いも済み体調も整ったころになると仕事上の情報がいろいろと入ってくるようになってきた。
「池袋の店は年中無休だが、銀座の店は日曜が休みで、しかも給料は、もっといいよ」
 などと。
「さぁー、どうしよう・・・」