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 「筑波の峰を遠く見て」は私が作曲した鉾田第一高等学校応援歌の歌い出しである(作詞者は俳人の今瀬剛一氏)。私が生まれた旧鉾田町は、この歌のとおり、どこからでも筑波山が見えた。形のよい独立峰で関東平野のどこからでも見える筑波山は古くから多くの人々に敬われ、愛され、歌われている。

 筑波山は猫の耳のような二つの高みを持ついわゆる双耳峰である。双耳峰の大きい方はオンネ山とも呼ばれていたらしい。オンネとはアイヌ語で「大きく存在する・親である・老いたもの」などの意味だ。アイヌ語は縄文語の北海道方言であるから縄文時代にオンネ山と呼ばれていたものが弥生時代になってオンナ山になり、漢字が伝わってから女体山になったのであろう。
 常陸風土記などに記されているウタガキ/カガイは弥生時代の風習である。歌垣(うたがき)は「歌掛き(懸き)」、嬥歌(かがい)は「懸け合い」の東国変訛と思われる。穀物の豊穣と子孫繁栄を願って若人たちが集い、性を謳歌した。しかしそれにもルールがあり、歌を作り、歌い、それが参加者に認められなければ次に進めなかったらしい。これらが後の歌合や連歌の源流になったことを思うと、今どきの合コンよりも遥に文化的だったのではないか。
 当然、筑波山は万葉集にも数多く歌われている
 平安時代に陽成院(皇子)が詠み、百人一首にもなっている「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞ積もりて淵となりぬる」は茨城県人であれば誰でも知っているであろう。これらをみると筑波山は伝統的に男女の出会いの聖地であったことがわかる。そういえば私が高校生のとき、今の妻にプロポーズをしたのも筑波山でであった。土浦駅で上記の歌を教えてくれた国語教師に出会ってしまい驚いたことを覚えている。
 江戸時代になると「東に筑波、西に富士」といわれ、眺めて良し登って良しの山として庶民に親しまれた。富士山は現在でも東京からよく見えるが、江戸時代には筑波山もよく見えたに違いない。江戸で漢学を修めた者は筑波山を「紫峰」と詠じた。醤油のことを「むらさき」というのは産地の野田が「紫峰」の方角にあるからである。
 江戸時代末期には水戸天狗党が筑波山に挙兵した。天狗党と諸生党の抗争はおぞましく、今でもお互いの子孫の縁談に差しさわりがあるほどだ。吉田松陰や西郷隆盛らは水戸詣でをして水戸学を学んでいる。それほどの人材を数多く有した水戸藩は天狗党の乱で壊滅した。かくして明治は薩長の天下となったのである。

 さて、筑波山は私にとって生まれて初めて登った山らしい山である。小学校三年生の遠足で登った。引率の井川倫子先生のことは今でもハッキリと覚えている。高校生のときには上記のとおり、今の妻と登った。その後、家族とも登り、体力増進のために一人でも何回か登っている。何よりも印象深いのは還暦を過ぎてからの巴中学同級生たちとの登山であった。小野瀬壽・新堀喜久・川井澄子・樋口光子の諸君諸嬢とである。登山前に今でも毎年カガイの舞が奉納されている筑波山神社に無事を願った。
 新堀喜久君は、その言動や命名から測るとご先祖は諸生党であったであろう。天狗党を先祖に持ち、思想的にも真反対である私と山登りや同窓会で親しく付き合ってくれた。もう一歩踏み込んでそれらを確かめたいと思っていた矢先に急逝してしまった。
 今ごろ、筑波山上空から私たちを見守っていてくれるだろうか。それとも、やはり「筑波の峰を遠く見て」いるだろうか。

          筑波の峰を遠く見て 
          波くだけ散る荒磯に 
          育ちし我らの血を沸かす 
          この戦いの勝者たれ 
          立て立て我ら 我ら鉾一
          我ら鉾一健男児
          (鉾田第一高等学校応援歌)
コメント
この記事へのコメント
筑波山は私にちょっと関係がある。
いつもの散歩コースにある南中学校は私たちが在学中、クラスの名は関東地方の山の名前だった。
私のクラスは、1年の時は榛名山、2・3年は筑波山である。
歴史的な事は何も知らなかったが凄い山だったことが分かった。
凄い収穫だ。
2015/02/11(Wed) 21:57 | URL | hana | 【編集
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