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 私は中学を卒業すると自立した。正確にいうと姉妹3人と母、私を含めて合計5人の生活が係っていたのだから自立以上であろう。
 大阪から帰郷した私は夏休みいっぱい巴第二小学校でピアノの練習に明け暮れたが9月になると昼間だけ働くようになった。いま考えると怪しげなのだが、何人かと共にオート三輪に乗せられて山の中に行き、芝を30センチ四方に切り、重ね合わせて持ち帰るのだ。ときにはオート三輪で小1時間ほど走り、見知らぬ川の堤防の芝を剥がしたこともある。母に話すと、それはやめた方がいい、という。
 次の仕事は同じ口入れ屋に紹介された土方だった。東京都江東区砂町の飯場に潜り込んだのである。いろいろな人がいた。親方は日本語がたどたどしい朝鮮人。「班長」は銭湯代・たばこ代・酒代・つまみ代など何でも払ってくれたが利子を取っていた。よれよれの老人なのだが働き始めると他人の2倍も3倍もの仕事をする穴掘り名人もいた。この人は日給ではなく能率給であった。親方のイケメン息子は狭くて脱輪しそう道でもオート三輪を見事に運転した。四輪トラックもあったのだが砂町近辺の細く入り組んだ道路を工事するには小回りの利くオート三輪の方が便利なのだ。この人は運転だけして土方仕事はせず、私が土くれを荷台に放り投げている間、運転席で勉強をしていた。そういう私も仕事が終わるやいなや着替えもせずニッカボッカのまま御茶ノ水のピアノ専門店に向かったのであるから変人の最たる者であったであろう。
 次なる仕事は家から通える鉾田町内の澱粉工場の下働きであった。高校受験のために少しは家にいて勉強をした方がいいだろう、と母にいわれたからである。固まった澱粉を切り分けて車に積み込んだり、芋袋を肩に担いで運ぶだけであったから土方仕事と比べると楽なのだが頭が痛くなるほどの悪臭には閉口した。この間、夜になると小学校でピアノの練習はしたが受験勉強は全くしなかった。生来の勉強嫌いなのである。
 しかしながら受験をしてみるとけっこう上位の成績で合格していた。かくして私は、めでたく鉾田第一高等学校の生徒になったのである。ところが「めでたさも中ぐらいなりおらが春」にすぐに気がつく。親戚に援助を乞(こ)うていた中学時代のようにテニス三昧・読書三昧とはいかないのだ。テニス部には一応入ったのだがすぐに辞めざるを得なかった。朝は牛乳配達、夜は家庭教師の生活が始まったからである。牛乳配達は大和田の井川商店と下吉影の笹川商店の2軒分をこなした。巴中学校の原保男先生から、近所の中学生の勉強をみてあげられないか、との打診があり引き受けた。これは夕食が出るのが何よりも嬉しかった。イチゴやバナナを輪切りにしたものにシロップをかけたデザートなど我が家では望むべくもない。そのときの生徒たちは今、医者・建設業者・農場経営者・主婦などになっている。また牛乳配達の途中、新堀正孝氏宅で度々朝食をご馳走になったこと、隣の新堀醤油店の優しいお姉さんから貴重なお菓子をよくいただいたことも忘れられない。
 このような状態であるからして自分の勉強などは一切できない。それでも読書だけはよくした。自転車のハンドルにぶら下げた牛乳を入れるトートバッグの上に目玉クリップで広げた本を置いて運転しながら読むのである。以後現在に至るまで私は目玉クリップを愛して止まない。
 高校生活は楽しかった。コーラス部とブラスバンドに入り、昼休みの歌の集いも立ち上げたからである。コーラス部や歌の集いで自作の歌曲を歌ってもらうのが何よりの楽しみであった。ブラスバンド部は創部に立ち会った。初めての顔合わせのとき前出の澱粉工場の後継者が3年生として現れた。彼は目が合ったとき仰天したが、私が働いていたことなど一言も口にしなかった。加山雄三にそっくりだったことを覚えている。
 鳥栖郵便局の新堀煕輔君とはいつも行動を共にした。彼はブラスバンドではクラリネットやトロンボーンを、歌の集いではアコーディオンを演奏してくれた。声質も同じなのでコーラスもよくハモリ、人相体型が似ている上いつも一緒なので上級生たちに、双子ではないか、と言われたほどである。鉾田一高応援歌を作曲したのもこのころのことであった。1年先輩になった小野瀬君や岡本君、その友達の池田君や後に代議士になる石津君、それに妻の親友の高柳さんや「必死の思い」に出てくる米川校長のご子息の伴侶となる辺田さんなどと語り合い行動したことも楽しい思い出である。それにいつでもブラスバンド練習場にいてトランペットで難しいフレーズを黙々と吹いていた定時制の高崎君が忘れられない。彼は伊東温泉ハトヤホテルジャズオーケストラの責任者を勤め上げた後、静岡県から委嘱されて静岡ジュニアジャズオーケストラの指導育成に当たっている。
 ひとつよろしくなかったことは時間が取れないのと勉強嫌いが重なって徐々に成績が落ちてきたことである。日立専修学校を中退して一緒に鉾田一高に入学した親友の重藤君には、もっと頑張るように、と再三にわたって注意された。しかし落第するほどではなく、将来いい会社に入ろうとか出世しようなどとは露ほどにも思っていなかったので全く気にならなかった。
 もう一つ高校生活で忘れられないことは労音運動や安保反対のデモに参加したことである。労音活動は役場職員や商店の店員・店主などと一緒だった。ジャズボーカル界のレジェンド水島早苗さんやその夫君でジャズピアニスト兼作曲家の永田先生の教えを乞うことができたのも、デキシーキングスと小太鼓奏者として共演することができたのも皆この方たちのお蔭である。町議会議員の井川信彦氏と県内の祭囃子を研究して歩いたことも楽しい思い出だ。このことが前出の永田先生作曲、デキシーキングス演奏の「葦と共に」の東北労音巡演につながったのである。
 そして何よりも、生のクラシック音楽に触れることができたことは私にとって哲学的開眼ともいうべきものであった。丸木本店2階のリスニングルームでベートーベン・シューベルト・チャイコフスキー・ドボルザークなどのレコードをスコア片手に必死になって聴いたのもこのころのことである。
 安保反対のデモに対しては毎日のように鉾田駅前から日比谷公園までの貸切りバスが出ていた。日比谷公園で集会をし、国会周辺をデモリ、銀座で解散をする。後に銀座で何十年も演奏をすることになるなどとは、このときは思いもよらなかった。バス代は丸木本店店主を始め何人かがカンパをしてくれた。
 この時分、驚いたことに同級生のH嬢の兄が鉾田一高にオルグに来たことがある。ブンド派だ。絶妙なオルグ活動なので何人かが集まったが、危ないことをいう割には線が細く実行が伴わない。頼りないな、ついていけないな、と思っているうちに現れなくなってしまった。
 このように私は高校生のとき既に自立以上の生活をし、実質的な付き合いは大人ばかりだったので同級生たちが幼く見えて仕方がなかった。
 ゆえに私が二十歳で結婚した理由は、約束をしたからには早く果たした方がよいのでは、と思ったまでのことで、年齢に対する違和感は全くない。妻が身ごもったとき、子供が子供をつくってどうするつもりだ、と妻の父にいわれたが、こういうわけで私は立派な大人だ、というと二度とそのことは口にしなくなった。
 以後、私のやりたい放題の大人時代が始まる。

隣人に友に恵まれ育(はぐく)まれ
            若者は今 荒野を目指す
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この記事へのコメント
帰ってきた市村君
 市村君が大阪から戻ってきて鉾田一高に入学してきたのは私が高校2年の時でした。とにかく忙しそうでなかなか話す暇もなく現在に至っているが、彼のエッセーを読んで忙しかった訳が今になって理解できました。今回の一連のエッセーを読んで中学時代の市村君が帰ってきた感じです。私のことをはじめ同級生たちのことをいつも気にかけていただいていることにいつも感謝しています。
2015/02/15(Sun) 21:38 | URL | 小野瀬壽 | 【編集
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