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 銭湯は法的には公衆浴場といわれ、風呂屋とも湯屋ともいわれる。湯屋は歴史的には「斎屋」と書かれていた。「斎」は神式では「いつき」仏式では「とき・いもい」と読まれ、どちらも身を清めた後お供物のお下がりをいただきながらくつろぐことである(斎藤氏は神仏に仕える藤原氏の分流)。したがって「斎屋」は社寺などに参籠する前に斎戒沐浴するための施設で、厳密には蒸し風呂方式を風呂屋と呼び、沸かし湯を使うものを湯屋と呼んで区別していた。
 江戸時代になると社寺近辺だけでなく市中にも業者が現れ、京大坂では風呂屋、江戸では湯屋などと地域によって呼び名が変ってくるとともに、風呂屋と湯屋は混同されるようになっていく。また戸棚風呂という出入口が小さな引き戸で、まるで戸棚の中に入るようなものもあった。蒸し風呂のスノコを板に変え、膝が浸かるほどの湯を入れ、湯と蒸気を同時に浴びるものである。このようなハイブリッドシステムがそれまでの風呂と湯との違いを曖昧にし、風呂屋と湯屋が混同されることにもなった。
 江戸時代初期の湯屋は男女別に浴槽を設けることは経営的に困難であり、老若男女ともに混浴であった。寛政3年(1791年)の「男女入込禁止令」や天保の改革によって混浴が禁止されると湯屋は銭湯として一般化し、庶民の間に浸透していく。
 明治10年には、それまでの柘榴口式浴場に代わり、浴槽を板の間に沈めて湯を入れ、流し場の天井を高くして湯気抜き窓を設けた銭湯が造られた。
 柘榴口(ざくろぐち)とは茶室のにじり口を横に広げたようなものである。当時は水が貴重なため、湯量が少なくてすむように浴槽を浅くし、大切な蒸気も逃がさない構造になっていた。浴室内の明かりは柘榴口の低い隙間から入ってくるわずかな光だけである。しかも湯気が立ちこめているので中の様子は見えず、皆で声を掛け合いながら恐る恐る進んだ。湯の状態を判断することが難しいゆえ衛生上の問題もあり、また風紀上好ましくないこともあったという。
 明治17年、警視庁は、それまでの柘榴口式浴場を衛生上・風紀上の問題から禁止した。このことをもって現代にまでつながる肩まで浸かる浴槽と高い天井に湯気抜き窓を設けた銭湯の原形が完成したことになる。

 さて、私が初めて銭湯をつかったのは高校を卒業して東京に出てからである。落ち着いた先は北池袋駅から歩いて5分の豊島区堀之内の三畳一間のアパート、銭湯はその先100メートルほどにあった。豊島湯といい豊島中央病院に近い。
 唐破風の下にある男湯と染め抜かれた暖簾をくぐり、番台にパチパチパチーンと小銭を置く。浴槽は壁際に2つあり、右側がぬるめ、左側が熱めである。ご多分に漏れず富士山のペンキ絵が左右の湯船の上にまたがっている。大雑把で毳毳(けばけば)しく少し下手くそな感じが目のやり場に困っている若者にはちょうどよかった。
 体を拭きながら脱衣所まで戻り大鏡の前に立つ。まず確かめるのはチンチンだ。隣人の珍なるものも、たまたま見えたふりをして覗く。なぜか安心する。扇風機の前に立ってコーヒー牛乳を飲む。これぞ至福のとき、何ものにも代えがたい。壁には必ず警察からの手配書が貼られていた。「ふーん、悪い奴は悪い顔をしているなー」などと思いながら見ているうちに火照った体が落ち着いてくる。
 この板敷の大広間は子供から老人まで脱ぐ者・着る者・裸の者が入り乱れていたが不思議な統制がとれた快適な空間であった。子供にとっては初めて社会性を身につける場所であり、老人には最後の癒しの空間であったであろう。

 さてさて、一人で通ったのは1年未満、成人式前に結婚したので間もなく二人で通うようになった。それはもう名曲「神田川」の世界そのものである。タイトル通り「石鹸カタカタ、下駄をカラコロ鳴らしながら」出かけ、待ち合わせて帰る生活と相成った。1つだけ「神田川」と違うのは独身時代の「三畳一間の小さな下宿」から四畳半へ同じアパート内で移動したことだ。もっとも1畳ほどを占めていた大型のエレクトーンもこのとき移動したゆえ実質的には3畳間ほどにしか使えない。それでも「若かったあの頃何も恐くなかった」。歌詞の通りである。「ただ貴男のやさしさが恐かった」かどうかは妻に訊いてみないと分からない。
 作曲者の南こうせつ氏によるとコンサートでこの歌を歌うと白髪頭や禿げ頭の大の男がオイオイと泣くそうだ。私と同じ世代の男たちは皆同じ思いをしたのだ。

日常の戦闘終わり銭湯へ
        石鹸カタカタ下駄はカラコロ



朝日新聞記事「江戸の町の湯屋」
朝日新聞土曜be版2/7記事「江戸の町の湯屋」
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