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 高3の夏休み、従兄の武田幸男君のアパートに寄宿させてもらい、国立音楽大学作曲科の模擬試験講座を受講した。講師は歌曲の作曲家として知れわたっているT先生である。
 何も言わずスラスラと音符を板書していく。慌てて五線紙に書き写すと「そのまま写すやつがあるか」と、こっぴどく叱られた。書かれた一声に対して三声を付け加える課題だったのだ。瞬時に判断して五線をその分空けなければいけなかったらしい。聴音は、旋律は出だしの数音しか聴き取れず、和声に至っては不協和音で全く記譜することができない。ソルフェージュ(初見視唱)は自信があったのだが何か所か音程を外してしまう。楽器演奏の課題はエスケープした。ブラスバンドでやっていたトランペットも自主的にやっていたピアノも水準に達していないことが分かり、無駄と思ったのだ。諸々の課題が合格にほど遠いことは一目一聴瞭然だし、合格しても入学金や授業料を支払うことが叶わないことは元から分かっている。それでも挑戦してみたかったのだ。お陰で気持ちがスッキリした。今でも従兄の幸ちゃんには感謝している。
 しかしながら、音楽以外の勉強に全く興味の湧かない私に他の道は考えられない。けっきょく、入学したのは新宿柏木にある音楽専門学校だった。入試には独唱があり、驚いたことに審査員の中に藤原義江がいる。殆どの受験生がカーロミオベンを原語で歌ったが何も知らなかった私は仕方なく「帰れソレントへ」を日本語で歌った。それでも合格できたのは夜間部なので募集人員に達せず、入試など、どうでもよかったのであろう。
 こうして私は、昼は生協職員、夜は音楽専門学校学生の生活が始まる。昼の仕事は早稲田大学生活協同組合の理事をやっていた井川信彦氏の義弟が紹介してくれた。これまでの経験で一人になると食事に事欠くことを知っていた私は「どんな仕事がいい」と訊かれて躊躇なく「食堂」と答えると、そく早稲田大学理工学部生協食堂炊飯部で働くことに決まった。1日に1000食分以上もの飯を炊く仕事は決して楽ではない。何十個もの平釜を大型ガス炊飯レンジに手鉤(てかぎ)を使って入れたり出したりする。もちろん回り中熱気ムンムンだ。段取りを間違えて加熱しすぎ、平釜の底に穴を開けたことも何回かある。今のように自動点火や消火装置などなく全行程が手動だった。思ったとおり仕事中、腹いっぱい食べられることはよかったのだが、夜学が終わりアパートに帰ってくると腹はペコペコ。自炊をする時間はなく、食堂で働いていながら外食を余儀なくされることがなんとも無念だ。井川信彦氏の友人である後藤夫妻のお世話で豊島区堀之内のアパートに住みついた私は池袋駅東口の大戸屋食堂で仕方なく朝食と遅い夕食をとった。後藤氏は金達寿(きむたるす)の弟子で歯科医師でありながら作家をめざしていた。夫人は偶然にも中1担任の中奥先生の親友である。
 早稲田生協にはいい人も悪い奴もいた。高校時代「進歩的な団体には皆いい人ばかりいる」と思い込んでいた私はがっかりした。おしゃべりで怠けてばかりいる奴が直属の上司だったからある。彼が私に過剰な仕事を押し付けたとき、平釜の底を焼き切ってしまうのだ。
 古いアコーディオンを持ってきて「これでみんなの歌の伴奏をしてくれないか」といってきた山田さんはいいひとだった。その頃、大はやりの労働歌「がんばろう」やロシア民謡などを伴奏してあげると皆、大喜びだった。
 ところがメーデーも終わり梅雨が始まったころ、母が十二指腸潰瘍で入院してしまう。さっそく病院にいってみると「重症ではないが食事療法なので長くかかる」とのことだ。
「さぁー、困った入院費をどうしよう・・・」
 山田さんに相談すると、夜のお店でピアノを弾く仕事を紹介してくれるという。山田さんはベース奏者の経験があるらしい。いい人はどこまでもいい人なのだ。
 彼に連れられて池袋東口の「女の城」というキャバレーのテストを受けてみると「そういう弾き方ならうちのようなフルバンドよりもコンボのほうがいいだろう」とバンマスがいう。要するにでたらめ放題の演奏だったのだろう。断り文句かなと思ったら、すぐその足で100メートルほど離れたキャバレー「冬の宿」に連れていってくれた。こうして合計1時間ほどで私のプロデビューが決まった。「冬の宿」では「あしたから来てくれ」といわれたのだから、要するにピアノ奏者の欠員を補うためにピアノの前に座ってさえいれば誰でもよかったにちがいない。
 そのときは2,3か月もすれば元の生活に戻るつもりであったから、夜間音楽学校は休学扱いにしてもらった。ところが、音楽は一回性のものとして必要とされる現場でやるのと、練習や勉強と称してブツ切りにしてやるのでは、全く違うことに気がついてしまった。音楽学校の何倍もキャバレーの方が得るものがあるし楽しいのだ。学校音楽は死に体のものでキャバレーの音楽こそ生きているように思えたのである。ごく自然に・・・学校音楽から遠のいていってしまった。
 後で分かったことだが「冬の宿」のバンマスに「給料はいくら欲しい」といわれたとき、昼間と同じでよいと思い「2万5千円」と答えたことが雇ってもらえた大きな理由だった。メンバーの給料が安ければその分バンマスの収入が増えるので「しめた」と思ったらしい。
 「冬の宿」にはタンゴバンドとジャズバンドの2つがあり、ひっきりなしに生演奏をしていた。タンゴバンドはピアノ・ベース・ドラム・バイオリン・アコーディオン、ジャズバンドはピアノ・ベース・ドラム・テナーサックス・トランペットの編成である。タンゴバンドのバイオリンのおばさんはアドリブもスラスラとやる。今でもアドリブのできるバイオリニストは少ないのであるからそのときは驚いてしまった。おじいちゃんピアニストの演奏法もすこぶる参考になった。我が方のバンマスの高橋さんは長年無声映画の伴奏バンドでトランペットを吹いていた方である。ベテランのテナーサックス奏者はいつも大音量で吹きまくり、ベース奏者はいるのかいないのか分からない人であった。ドラム奏者は「俺の女に手を出すな」が口癖の変な人。私はといえば、音符が書いてある部分は何とか弾けるのだがアドリブ小節になると止まってしまう。高橋さんには「なんでもいいからとにかく弾けばいいんだよ」といわれたが今まで遊び半分でしかやったことがないアドリブが、そう簡単に上手くいくはずがない。
 「冬の宿」には毎日、手品やストリップなどのショーが入った。それらのうち、かつて浅草オペラの花形であった田谷力三の伴奏がすこぶる勉強になった。この時期の彼は人気が衰えていてキャバレーなどに出ていたが、その後はテレビやステージなどで引っ張りだこになっていく。
 お陰様で母の入院費の支払いも済み体調も整ったころになると仕事上の情報がいろいろと入ってくるようになってきた。
「池袋の店は年中無休だが、銀座の店は日曜が休みで、しかも給料は、もっといいよ」
 などと。
「さぁー、どうしよう・・・」
コメント
この記事へのコメント
自分の歩んできた人生を文章にして短編小説のように書けるなんて羨ましいです。
私の和裁でさえ学校で和裁を習ったのとプロでやっている先生の教えは全然違います。
“綺麗に早く縫わなければプロじゃない”と呉服屋の番頭さんに良く言われました。
ゆっくり丁寧に綺麗に縫うのは誰でも出来るって言われ続けました。
教え方も全然違いました。
資格試験を取っても師範を取っても、それからが修行でお金を貰うまで何年もかかりました。
一人前になるまで払わないように先生が呉服屋に止めたのです。
世の中って本当に大変です。結婚してからなので辛かったですね。
でもそのお蔭でいまだに仕事があるのですから先生に感謝しています。
いろいろな事を経験して我慢して続ける事が今の自分を作っているんですね。
昔を思い出します。
2015/02/25(Wed) 20:04 | URL | hana | 【編集
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