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     親鸞めぐり旅

   講談社   講談社学芸局編


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「親鸞めぐり旅 親鸞追慕 親鸞との出会いの旅へ」との旅行案内書を紹介します。

 親鸞は90歳まで生きました。

 35歳まで京都、42歳まで新潟、62歳まで茨城、90歳まで京都で過ごしました。

 わが故郷の茨城では20年間も布教をしてくれたのです。

 それも、私が生まれ育った周辺で。

 それらのことを同級生をはじめ、ほとんどの同胞は知らないでしょう。

 ゆえに、故郷の親鸞の足跡が中心になることをお許しください。


 まず、新聞広告に毎日のようにでている「歎異抄」ゆかりの寺、水戸市河和田町の報仏寺。

 歎異抄を書いたのは今のところ、この寺の唯円(ゆいえん)ということになっています。

 原保雄先生によれば、唯円は茨城の人ではないだろう、とのこと。

 正体はまだ、はっきりしていません。


 鉾田市鳥栖(とりのす)の無量寿寺は小3の私がはじめて遠足に行ったところです。

 当時の遠足は、その名の通り徒歩旅行。

 5キロの道のりを半日かけて歩きました。

 腹ペコで、おにぎりの包みをひろげた私は、茹で卵の皮がうまくむけなくて地面にころがしてしまいました。

 家に帰ると、苦労して手に入れた卵の味を母にきかれたのですが。

 泥まみれになったので捨てた、というと母は泣きだしました。

 無量寿寺には親鸞が3年間も住み、そのあとを弟子の順信に託したのです。

 順信は親鸞の死後、覚信尼ら家族の援助もしました。

 鉾田市下富田の無量寿寺も親鸞の布教活動の休憩宿泊場所だったところです。


 笠間市稲田の西念寺は親鸞が妻覚信尼とともに子供を育みながら布教活動の本拠地にしたところです。

 私はいっとき、陶芸家になろうとしたほどですから、笠間にはよく通いました。

 西念寺は何回か参詣したことがあります。


 鹿島神宮は神仏習合時代には巨大な神宮寺でした。

 親鸞は文献や経文の閲覧のため、何度も出かけたようです。

 当時は道路が改良されてなかったので西念寺から鹿島神宮までは巴川~北浦などの水上交通が主だったことでしょう。

 途中にある2つの無量寿寺や民家などに、たびたび宿をとったことと思います。

 これらの足跡の証拠がでてくることがあるかもしれません。

 旧家や寺などで古文書をみたら注意してください。

 なにせ、鹿島文書や蒲田文書など日本有数の古文書地帯なのですから。


 これらのことを思い廻らせながら、この本を片手に、ぜひ茨城県鹿行地区にお越しください。

 茨城県が好感度最下位だったなどとは信じられないですよ。
コメント
この記事へのコメント
五木寛之の親鸞が出た時すぐ買って読みましたが殆ど覚えていません

ゆっくりできるようになったら読み返してみます。
2021/02/18(Thu) 12:25 | URL | hana | 【編集
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